社長の生い立ち

このページをご覧いただきありがとうございます。このページでは、わたくし代表網島の生い立ち、エコミラ誕生までの流れを綴っています。

自分以外の誰かの役に立ちたい

僕がHRという会社を創立したのも、エコミラを開発したのも、原点は「自分以外の誰かの役に立ちたい」この一言につきます。

冒頭から仕事とは関係ない話ですが、僕が誇りに思っているエピソードを一つ紹介させてください。

僕の住んでいた地域は、田舎で未給水地域だったので、井戸を掘って水を作っていました。冬になると必ず水不足になり、住人たちは何とかしたいとの思いでいっぱいでした。

そこで、自治会で水道委員会を立ち上げ、亀岡市の公共の水をわが地域に引く活動に力を入れていました。僕は、経理と一部地域を(約200世帯)担当し署名を集めたり、説明会を開催したり、看板を立てたり等々様々な活動を通じて、地域住民と仲良くなれました。

念願かない、国と府と市の補助金を活用し、総事業費28億円の事業を達成することができ、2840世帯に水道を引くことができました。

ありがたいことに僕の名前「網島弘幸」も刻んでいただいています。

このときに、住民の方々の嬉しそうな顔は今でも忘れません。自分以外の誰かの役に立つこと、自分の行動で人が喜ぶこと、これ以上に僕は生きる喜びを知りません。

田淵選手に憧れた少年時代

僕は、昭和44年(1969年)1月2日大阪市淀川区で、3人兄弟の長男として生まれました。
僕の両親は、借りていた家が狭かったため、もう少し大きな家へ引っ越しすることになりました。


1975年(昭和50年)

少年期(6歳)
引っ越し先は、豊中市で僕が結婚するまでは、ずっと豊中市に暮らしていました。小学生の時は、地域の少年野球部(軟式)に入団させてもらい、体格が良かったので、希望したわけではなかったのですが、キャッチャーをしていました。当時の僕のあこがれの選手は、阪神タイガースの田淵選手でした。

今でも何かの予約番号とか、テーブル番号が22番(田淵選手の背番号)だと、ちょっとテンションが上がります。

野球をすることは好きだったのですが、自分と、他の同級生の技術の差を見て愕然としました。野球って、努力よりもセンスだなぁとその時思いました。なかなか1軍にはなれず、2軍の試合ばかりに出ていました。

スポーツをすることは大好きだったのですが、絵を描くことや、漫画を描くことも大好きで、僕の教科書に掲載されている著名人たちは、いろんなコスプレや、メイクをしていました。そして、ページをめくると必ずパラパラ漫画になっていました。もともと、じっくり何かに取り組むことや、考えることが好きでした。

パソコンに衝撃を受けた中学時代

中学生になると、ボールを投げるときに肩が痛くなるようになり、野球をやめました。そのころ、僕にとって、衝撃的なことが起こりました。僕が中学1年生の時に、家電量販店に行くと自分の打ち込んだプログラム通りに画面の絵が動くのを体験したのです。

それは、僕にとって衝撃的な体験でした。

自分が作ったものがテレビに映るって、凄いって感動しました。プログラムが載っている本を買っては、家電量販店に展示されているパソコンに打ち込み遊んでいました。当然、朝一に行って、閉店まで遊んでいるので、店員さんにはいつも迷惑がられていました。

そこで、親にねだりパソコンを1台買ってもらいました。そのパソコンは、NECの名機 PC-8001でした。当時記録メディアは、カセットテープしかなく、時間をかけて保存をし、長いプログラムを打ち込み、いろんなゲームを作っていました。

漫画部の部長としてアニメにはまる

中学校では、もともと好きだった漫画部に入り、3年生には漫画部の部長になりました。入部中に一度でいいのでアニメーションを作りたいと、顧問の先生に予算の申請をし、超短編のそれもセル画を使わない、ケント紙を1枚1枚8mmカメラで撮影していくという超原始的なアニメーションを作成しました。

部員のみんなで声優をして数分間のアニメですが、製作することができました。

休みの日は、映画を見に行き、朝から晩まで同じ映画を何回も見ていました。当時は入れ替え制ではなかったので、まず1回目は、字幕をじっくり見て、2回目は字幕を見ずに見て、3回目は画面の隅々まで目を凝らして、最低3回は見ていました。

それをしていたので、英語が大好きになり、将来はしゃべれるようになりたいなぁと思っていました。

大学進学させてもらえず家庭の事情で就職

高校生になると、自宅から高校までが遠かったこともあり、クラブには入部せず、過ごしました。映画を見に行ったり、パソコンの参考書を購入したりするため、アルバイトは常にしていました。

朝刊を配ったり、中華屋さんで出前をしたりして小遣いをためていました。勉強は嫌いではなかったので、大学へ行きたいと思い、たくさんの大学受験の本を購入しました。国公立大学を目指すコースを選択していて、先生も積極的にいろんな大学への推薦を提案してくれました。

そして、3年生の秋に父親から大学進学を断念して、就職してくれとの要望があり、先生に相談すると、この時期に就職を斡旋できるところは、限られているので、やめたほうがいいといわれました。もともと父親は体調が悪く、働いていない期間が多かったので、生活保護を受けて僕ら兄弟は育てられていました。

その時、先生たちは奨学金制度のことや、大学進学の利点を父親に説明してくれたのですが、頑として受け入れてくれませんでした。少し投げやりになった僕は、先生に通えるところで、働ければどんなところでもいいから、推薦してほしいとお願いし、池田市の会社に入社することができました。僕の希望は、「給料もらえればなんでもいい」でした。

まさかの一番好きな設計という仕事を任された

1987年(昭和62年)就職(18歳)でもそこで奇跡が起こりました。自動車メーカーの下請けの会社だったのですが、僕が入社した年から設計部門を拡充し、自社の製造機械は、100%自社で設計することになりました。

同期入社は11名いたのですが、そのうち僕を含め、3名が設計部に配属されました。1名が短大卒で、2名は高卒でした。設計はしたことはなかったのですが、自分の描いた絵が実物になるのは快感で、もともと、こもって絵を描いたり、パソコンを操作することが好きだったので、どんどん、仕事にのめりこみました。

仕事が終わった後は、製図の夜間学校へ会社の経費で1年間通わせてもらい、無事卒業することができました。

1年間で、高卒の一人は、設計者としてのプレシャーに負け退社し、同期入社は、2名になってしまいました。設計する機械は、自動車製造機器なので、穴あけ機、溶接機、多軸ロボット、搬送機など多種多様で、先輩に教えてもらいながら、経験を積ませていただきました。

その経験は、今でも僕の原点になっています。

将来は自分で設計事務所を開業したい!

その時に将来は、自分で設計事務所を開き独立したいとの思いがわいてきました。入社後、アパートを借りて一人暮らしをしていたのですが、そこで知り合った妻と結婚し、3人の男子を授かりました。1人目ができたときに京都の亀岡市に引っ越しし、3人とも、地元の野球チームに入部させ、休みの日はずっと夫婦で息子たちの練習や試合を見に行っていました。

僕が設計を始めたときはドラフターと呼ばれる製図版を使って、細い線用のシャーペンと太い線用のシャーペンを使っていました。しかし、その時代は終わり、コンピューター上で製図する時代に入ったのです。

もともとパソコンが得意だったので、CAD(パソコン上での設計)の担当にもなり、2次元CAD、3次元CADの専門家に成長させていただきました。しかし、会社にとっては、設計部門は目に見えて利益を出す部署ではないので、どんどん設計を単価の安い外部委託へと変わっていきました。

CADになったので、設計はデーター授受になり、僕の仕事は外部委託した設計のチェックになりました。設計した図面を加工屋さんに注文し、部品を作ってもらい、その部品を組み立て工場へ送り、組み立ててもらう。

そして自分の設計した機械を動かすために電気制御設計と打ち合わせをし、制御盤を製作してもらい、自分の思ったように機械を動かしてもらう。そして機械を完成させ、その機械を重量屋さんに運んでもらい設置し、機械を自動運転し、作業者に使用方法を説明し、不具合なく物を作っていくまでが、僕の仕事になっていました。

シャーペンからペンチへ!設計できないもどかしさ

自分で設計できないもどかしさを持ちながらやっていたのですが、設計部門自体がなくなり、僕は保全部署に配属されることになりました。会社の言い分としては、自分の設計した機械なので、保全できるだろうとのことでした。いままでシャーペンしか持ったことのない僕が、それをペンチに持ち変える日が来ました。

それも、その部署の係長として配属されました。当然部下は僕の言うことは聞いてくれません。なぜなら、僕より保全と修理の技術があるからです。

保全部の課長には、「今の保全部をただの修理屋から、本当の機械保全に変えてほしい」と言われ、保全部を改革していきました。昼勤夜勤の交代勤務で、200設備の保守点検をしなければなりませんでした。僕は機械設計しかしていなかったので、制御の勉強もし、動かなくなったロボットの修理やティーチング等、鉄粉だらけの暑い工場の中を腰道具をつけて毎日、機械と戦っていました。

現場主義ですべての修理項目を毎日記録し、機械ごとのカルテを作り、データーベースを作っていきました。泥だらけになって作業する姿を見て、部下にも認めてもらえるようになり、ただの修理屋から、計画的に保全できる部署へと成長していきました。

開業前に三年間の財産を得た

保全マンを2年続けたときに、握りしめたペンチを見て、このままだと設計ができなくなるのではないかとの不安が襲ってきました。2年もたつと設計の技術も進歩し、取り残されていく不安におそわれました。このままでは、設計ができなくなる。設計事務所を開く夢をあきらめることになる。そう思い退社する決意をしました。

2003年(平成15年)生産技術(34歳)
しかし、何の人脈もない中、設計事務所を開くことはできないので、自動車メーカーの生産技術に勤めて人脈を作ろうと思いました。そして、僕が今まで設計してきた機械の仕様ができるまでを見たかったのです。

生産技術部門を募集している会社に就職し、出向の形で3年間自動車メーカーに勤めました。生産技術部は、大学院卒を年にたった一人しか入れない部署です。自動車メーカーにとっては、屋台骨になっている部署で、生産技術が悪ければ会社がつぶれるとも言われている部署です。なので、そこで働く人たちは、僕が今まで体験したことのないような、頭の切れる人たちばかりでした。

もともと設計していたこともあって、僕はとても重宝され、年上の人も年下の人も、さん付けで僕の事を呼んでくれました。一流の人達の中で、3年間で2モデルのフルモデルチェンジの設備調達を経験させていただき、休みはほとんどなかったですが、一生の宝として僕の体に染みついております。本当に感謝しています。

出向期間が終わり、独立することを決意し、退社しました。

ついに念願の開業、そのとたんにリーマンショック

2006年(平成18年)独立(37歳)
自宅で個人事業主として、「ドラフター」という屋号で、事務所を開きました。設計の仕事は、断るくらいに入ってきて、自動車業界にくっついておけば、一生安泰だとタカを括っていました。

しかしそんな時に、リーマンショックが起こったのです。自動車業界は、不況に陥りモデルチェンジや、車種が縮小され、僕へ回ってくるはずの設計の仕事がなくなったのです。地元の法務局で、登記簿謄本の電子化のアルバイトがあったので、それをしながら、再就職活動を始めました。

41歳で再就職

2010年(平成22年)再就職(41歳)
職安で設計の仕事を紹介してもらい、部品メーカーの設計として入社することができました。そこは老舗の部品メーカーで、機械設計をしている人は誰もが知っているメーカーでした。部品メーカーの設計なんかは、夢のまた夢と思っていたのですが、運良く採用してもらい、様々な設計をさせてもらいました。しかし老舗とあって、現在販売中の部品の設計の変更を要望しても、なかなか許可を得ることができませんでした。そんな中、もっと自由に設計できる会社に入りたいと思い、外資系ではあるのですが、自由に設計させてもらえる会社へ転職しました。

エコミラの原型誕生

そこでは本当に自由に設計させてもらい、沢山のバリエーションの部品を設計しました。そして全バリエーションを設計したときに、突然社長から、解雇通知の連絡がありました。設計が不要になったとのことでした。愕然としていたのですが、ちょうど部品と一緒に、半導体関係の機械設計をさせてもらっていたこともあり、クリーンルームの空調の設計に携わることも多くありました。

そして空調の省エネ制御装置を作ることにかかわり、エコミラの前身である、制御装置を完成させることができました。

現在のHRが誕生

2013年(平成25年)HR創業(44歳)
解雇通知を急に受けたので、もう雇われるのは僕には向かないと思い、会社を辞めるまでに自分の会社をつくっておこうと思いました。解雇通知を受けて退職する迄の期間に自分の会社をつくりました。

なのでHRの最初の社長は、その時専業主婦だった僕の妻でした。創業してから、順調に商品は売れ続け、そんな中でエコミラの商標を取り、技術特許を取得していきました。

2017年(平成29年)

特許登録特許
第6205475号
省エネルギーシステム

2018年(平成30年)

特許登録特許
第6280279号
デマンドレスポンスにおける電力管理方法および電力管理装置
特許登録特許
第6300391号
電力管理方法および電力管理装置

2019年(令和元年)
おおさか版BEMS事業者登録

僕たちが考える未来

2020年(令和2年)エコミラの未来
今、VPPの一つとしてデマンドレスポンス が、注目されています。エコミラは、日本で唯一のデマンドレスポンス 対応の空調制御装置です。

この技術特許を多くの企業に使用してもらい、エコミラを空調のデマンドレスポンス のシンボルとして、世界に広めていきたいと思っています。